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日本のビジネスの中心、丸の内をつくってきた廣野研一。今度は、そこで働く人たちの「仕事」のあり方をつくろうとしている。

廣野研一は樹林AI の執行パートナー。三菱地所に 43 年在籍し、東京・丸の内の再開発やグランフロント大阪など、現代日本を代表する都市開発プロジェクトを率いてきた。OCA TOKYO では、初代館長兼 General Manager として 5 年間運営を担った。

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何度も聞かれる質問。

廣野が AI エージェント企業のパートナーとして働いていると話すと、多くの人から同じような質問をされる。

なぜ?

そう聞かれる理由は、廣野自身もよく分かっている。40 年近くにわたる街づくりと AI スタートアップ。一見すると、まったく別のキャリアに見える。

「僕の考え方としては、やっぱり都市づくりも AI エージェントも、未来をつくっていく上での必須アイテムなんですよね。リアルの場では都市がプラットフォームとしてあるけれど、仮想空間の世界では AI エージェントがその役割を担っていく。それが実際の都市にもつながって、境目はだんだんなくなっていくんだろうなと感じています。だから僕自身は、全然違和感がないんです。」

なぜ廣野にとってこの二つが自然につながっているのか。それを理解するには、もっと昔まで遡る必要がある。1968 年のオーストラリア。周囲から宇宙人のように見られていた、6 歳の日本人の少年まで。

話す前にまず聞くことを覚えた6歳。

廣野の母はサンフランシスコ生まれの日系アメリカ人。シカゴ大学で廣野の父と出会い、二人はアメリカで結婚して、生まれる前に日本へ戻った。

父は大学教授で、開発経済学・国際開発評価の草分けであり仕事の関係で一家は何度も海外へ移り住んだ。廣野は小学校低学年をオーストラリアで過ごし、中学時代の大部分をタイで過ごした。日本で継続して暮らすようになったのは高校から。家庭では英語を話していた。

オーストラリアは、自分とはまったく違う文化の中でどう生きていくかを、初めて学ばなければならなかった場所だった。

「彼らから見たら、僕は UFO から降りてきた宇宙人みたいなものだったと思うんです。最初は本当に『イエローモンキー』みたいな扱いを受けました。でも、まだ子どもながらに学んだのは、自分が思っていることだけを押し付けてもダメだということ。まず相手が言ったことを一旦自分の中で受け止める。その上で、自分の話や意見を言うということでした。」

周りに日本人は、廣野の家族しかいなかった。

「子どもって簡単に村八分にされちゃうんですよね。そうなっても助けてくれる日本人はいない。それは最悪だなって、多分当時考えたんだと思います。だから基本的に『ノーと言わない』ということをそこで学びました。全然違う文化だし、全然違う発想だから、まずそれを受け入れて、『そうか、そうか』と聞いた上で、『バイザウェイ(ところで)』と返していく。僕の基本的なコミュニケーションのスキルは、そこで生まれたんだと思います。」

数年後、一家はバンコクへ移った。

1970 年代初頭のバンコクでは、また違うことを学ぶことになる。当時、タイの大学生の間では反日感情が強く、チュラロンコン大学やタマサート大学の学生たちが火炎瓶を持って押しかけ、廣野の通う学校が休校になることもあった。

「危ないということで休校になるんです。でも当時はまだ幼い中学生ですから、休みになって喜んでいましたけどね。ただ、そういう環境で暮らしていると、『なんでこうなっているんだろう』と社会に対する関心が生まれてくる。小学校の時も中学の時も、違う文化があるということを肌身で感じたし、そこに危険が伴うことも経験しました。」

食べ物さえ、その学びの一部になった。オーストラリアに着いた頃は大嫌いだったベジマイトが、帰る頃には好きになっていた。マトンも同じだった。タイではパクチーだった。

「人間の価値観って、環境によって後天的に変わっていくんだなということをすごく感じました。一つの価値観に固執することの危うさというか、変わっていくのは自然なんだなと。だから自然を受け入れて、その流れをうまく捉えていく。その一方で、自分の中で本当に『これはいい』『これは悪い』と思うことは大事にしていこうと思うようになりました。」

高校と大学では東京の成蹊へ進み、日本で暮らすようになった。当時、父もそこで教授をしていた。アメリカにいた従兄弟たちはスタンフォード大学と UC Berkeley に通っており、廣野は彼らを訪ねた。ある晩、Berkeley で巨大な建物が明々と照らされているのを見て、何をしているのかと尋ねた。

全員、勉強しているのだと言われた。

「すごくショックを受けました。日米の大学生の勉学に対する姿勢がこんなにも違うのかと、本当にびっくりしました。」

日本の大学では、当時の大学生ブームに周囲が沸く中、廣野は音楽に夢中になっていた。1970 年代後半に日本でも広がり始めていたアメリカの Black Contemporary が好きだった。自宅にはターンテーブルが 2 台とミキサーがあり、自分で DJ ミックステープをつくっては、キャンパスの友人たちに配っていた。

評判が良すぎて、本気で将来を考えたこともある。

「『あ、俺、将来 DJ なのかな』って真剣に思ったりしてました。」

DJ にはならなかった。

三菱地所に入り、日本を代表する街をつくることになった。

廣野が三菱地所に入ったのは、綿密に描いたキャリアプランがあったからではない。

高校のバスケットボール部の先輩が働いていた。その先輩は明るく、リーダーシップがあり、自然と周囲を引っ張っていく人だった。廣野はそんな彼に憧れていた。

「非常にリーダーシップがあって、明るくて、みんなを引っ張っていく人だったから、『こういう人になりたいな』と思って。会社が何をやっているのかも、実はあまりよく知らないまま入りました。長期的なキャリアを考えて選んだわけではなかったんです。」

最初の仕事は、建物とはほとんど関係がなかった。

配属されたのは情報システム部。紙を中心に行われていた社内業務をコンピューター化する仕事だった。

大学では経済学を学んでいた。

それが突然、COBOL でプログラミングをすることになった。

「まず現状分析をするんですよね。仕事がどういうルーチンで動いているのか、何が問題なのかを整理して、スタートから『Yes』か『No』かで全部分けて、メインルーチン、サブルーチンをつくる。それを COBOL でプログラミングする。それまでグレーで物事を考えるのが当たり前だったのが、白か黒かをきっちり分けて、構造化して組み立てていく。すごく論理的な思考につながったと思います。」

厳しい仕事でもあった。

「どんどんつくればつくるほど、必ずバグが起きるんですよ。それで自分を追い詰めすぎて、閃輝暗点になってしまった。極端なストレスで目がチカチカするんです。そこまで自分を追い詰めてやっていました。」

その姿勢は、その後のキャリアにもずっと続いていった。

「120% やれば、やっぱり 120% の見返りがある。どうやったらできるかを必死になって考えて、それでもできなかったら、それはしょうがない。でも大体、できたことの方が多かった。だから非常に前向きに物事を捉えて、突き進んでいくということを、自分の信条として今まで生きてきました。」

流出した計画によって、三菱地所は東京都から締め出された。

「街づくりというのは、人・物・事の出会い、感動的な出会いを創出する、そういう場をつくることだと思っています。」

そういう場所をつくるには、廣野の経験上、3 種類の人が必要になる。

よそ者。 既成概念にとらわれず、外から新しいアイデアを持ち込む人。

ばか者。 リスクを恐れず、それに向かっていける人。

若者。 ひたすら走り続けられる体力を持つ人。

丸の内の再開発では、そのすべてが必要だった。

「当時は『24 時間戦えますか』っていう栄養ドリンク「リゲイン」の歌があったように、僕らも毎晩、夜中の 2 時、3 時までオフィスにいて、それから帰って、朝 9 時にはまた会社に来る。ずっとそんな生活を続けていました。」

廣野たちのチームは、東京の中心業務地区を、より高密度で世界と競争できる街へどう変えていくかを研究していた。その初期案の一つが、後に「マンハッタン計画」と呼ばれることになる。丸の内の容積率を大幅に引き上げ、東京のビジネスの中心を世界の大都市と肩を並べる街へ変えていく構想だった。当時、受けきれない都心に集中する業務床需要が外延化して地価が高騰する東京一極集中問題の解決を担う計画だった。

まだ完成していない段階で、その計画が外部に漏れた。新聞は記者たちがつけた名前で大々的に報じた。容積率など都市計画決定者である東京都は激怒した。

三菱地所は事実上、締め出された。

大きな痛手だった。その後何年も、チームは外側に置かれた。それでも勉強を続けた。

「僕らは不遇の時代が結構長かったんですけど、その間、一生懸命勉強していたんです。特定行政庁である向こうにはその知識がない。同じテーブルに着いた瞬間に、もう勝負があった。新しい都市再生のプランは、実はここだけの話、僕らが書いた下書き通りにどんどん進んでいきました。」

1999 年、石原都政が誕生した。資源を分散させるのではなく集中させるという明確な考え方を掲げたことで、流れは一気に変わった。

「180 度の転換になったんです。やっぱりリーダーシップでこんなに変わるんだな、ということをすごく感じました。」

廣野たちが何年もかけて準備してきたものが、ようやく動き出した。

大阪では、12 社に 12 通りの思惑があった。

次に廣野が送り込まれたのが、後のグランフロント大阪だった。12 社が関わるプロジェクトで、それぞれに異なる利害と思惑があり、足並みはまったく揃っていなかった。

「大阪はもうめちゃくちゃな状態で、僕は火中の栗を拾う覚悟で行きました。みんなが自分たちの主張ばかりして、会議では喧々諤々の議論をして、何も決まらない。そういうところに突然放り込まれたんです。」

廣野には一つ、武器があった。丸の内で築いてきた信頼だった。12 社を無理やり同じ結論へ引っ張るのではなく、当時の大阪にはまだなかった「エリアマネジメント」という考え方を、一つひとつ説明していった。

「そうすると、みんなだんだん理解して、『じゃあ地所さんが言うんであればやりましょう』と。12 社がまとまれるようになった。これも自分にとって、すごく大きな転機でした。」

Rise が最初に聞いてきたのは、カフスボタンの色だった。

三菱地所でのキャリアも終盤に差しかかった頃、廣野はもう一つ、新しいプロジェクトを任された。新しい形のソーシャルクラブ、OCA TOKYO だった。三菱地所としては初めての挑戦だった。廣野は初代 館長となり、5 年間その運営を担った。

「いろんな人を面接したり、会ったりしていて、その中で Rise と初めて会いました。」

廣野の第一印象は、決して「未来の AI 起業家」ではなかった。

「最初は、なんかすごい変わった若い人がいる、というイメージだったんです。でもすごく慕ってくれる感じで、『今日企業の方に会わなきゃいけないんだけど、スーツをつくりたいからアドバイスくれます?』とか、『カフスボタンは何色にしたらいいんでしょう?』とか聞いてくる。なんかすごく可愛らしくて、『あ、なんか可愛い奴だな』って思ってました。」

その後、Rise から自分がつくっているものを見てほしいと言われた。4 階のジムの隣に、小さな部屋があった。そこで初めてプロダクトを見た。

すごいとは思った。でも、まだ確信はなかった。

「最初見た時に『お、すごい』と思ったんです。でも、これを企業で採用するかと考えたら、まだ本当に初期の段階でした。言葉が少しおかしかったり、途切れたりする。だから『ああ、やっぱりまだこんなレベルなんだな』とも少し思いました。」

数か月後、Rise がもう一度プロダクトを見せた。

「もう全然改善されていたんですよ。『すごいスピードだな』と思いました。」

廣野が樹林AI を応援しようと決めたのは、Rise の一言だった。

ただ、廣野の心を決めたのはスピードではなかった。

「Rise のすごく高い志が、僕の琴線に触れたんですよね。僕自身も、丸の内の街づくりやグランフロント大阪を通じて、日本を元気にして、世界にアピールしていくというところがベースにある。Rise が『GAFA とかも全部アメリカですよね。日本から GAFA に負けないようなムーブメントを、この AI を使って起こしていきたい』と言った。そのすごく高い志が僕の琴線に触れて、『あ、同じじゃん。今までやってきたことと』と思ったんです。」

廣野自身、このつながりは AI という技術そのものが理由ではないとはっきり言う。

「別に AI っていうジャンルではなくて、考え方のレベルが同じだなと思ったんです。それで『これはちょっと応援しよう』と思った。それがスタートですね。」

大沢が Chairman として加わったことで、さらにもう一つ確信が生まれた。

「大沢さんは確固たる技術を持っています。『大沢さんも加わっているなら、技術的な裏付けや確証を持っているんじゃないか』と思った。それで、自分もより前向きに入っていける安心感につながりました。」

会社のどこに最も可能性を感じているのか。技術でも、プロダクトでも、タイミングでもない。

「やっぱり企業って、人だから。Rise は本当に人から信頼される人だと思います。最初はなかったけど、みんな一生懸命つくって、ちゃんとここまでできている。スタートアップだから、まだできていないところもたくさんあると思う。でも、人と人との信頼関係がちゃんとできているというのは大切です。そういう企業はやっぱり強いんじゃないかなと思います。」

廣野にとって、都市も AI エージェントも「プラットフォーム」だ。

ここまで来ると、廣野が何度も聞かれる質問への答えも少し見えてくる。

廣野にとって、街づくりとは建物をつくる仕事ではない。都市は、人、商業、情報、文化、そして偶然の出会いが交わるプラットフォームだ。

AI エージェントも、いずれ別の形のプラットフォームになっていくと考えている。

そして、この転身が自然に感じられる理由がもう一つある。

廣野は街をつくるよりも前に、COBOL でシステムをつくっていた。

「一番最初に入社してプログラミングをしていたので、物事を構造化して組み立てていくという、プログラミングの発想や考え方は基本的に全部同じだと思うんですよね。だから、そこはすごく理解しやすいんです。」

そして何十年も自分がプロジェクトを率いる側にいた今、自分の役割も変わってきたと感じている。

「もう年齢的に、これから未来に向かっていく若手をサポートしていく年代であり、立場だと思っているんです。彼らが一生懸命頑張っているのであれば、ちゃんとサポートしてあげたい。だから今回、スタートアップに関わらせてもらっています。」

樹林AI で、毎日探しているもの。

「自分の中で固定概念をつくって、それをずっと持つということはあまりしないんです。走りながらどんどん物がつくられていく。毎日『あ、こういう面もあるんだ』って、新しいことを知って、日々学んでいます。面白いですよね。」

廣野にとって、「面白い」ということは重要だ。

「やっぱり物事って、面白がらなきゃ僕はダメだと思ってるんです。ワクワクする気持ち。これがないと、人にもワクワクは伝わらない。だから常に、『この会社のワクワクは何だろう?』って探しているかもしれないですね。」

Rise は今でも、その材料をくれる。

「何か終わると、Rise から僕のところに電話が来て、『どう思います? どうでした?』って聞いてくるんです。いつも自分の成績表を求めてくる。そこが可愛いなと思いますね。」

廣野の中には、樹林AI の成功について、とても具体的なイメージがある。それは、これまでのキャリアで物理的な街をつくる中で目指してきたものとよく似ている。

「樹林AI をうちの会社に入れてよかったという声がたくさん聴きたいですね。『あ、樹林AI ですか。いいですよね、あのシステム』って、みんなが自然に語るようになる。日本でも、『あの丸の内があるところだよね』と言ってもらえるようなところまでは、まだできていない。どうしたらそこまでいけるんだろうというのは、一生のテーマですね。」

これまでのキャリアでは、物理的な場所に対して、そうした認知と信頼をつくってきた。今考えているのは、ソフトウェア企業がどうすれば同じものを獲得できるのか。その一つが、他にはない違いをつくることだ。競合するプロダクトを機能ごとに横並びで比較した時に、何が残るのか。

「樹林AI にしかできないことがある、ということだと思うんです。それは GPT の性能とか、105 言語に対応しているとか、それだけじゃない。サポート体制やクイックレスポンスも含めて、全部トータルで考える。比較表でずらっと並べた時に、樹林AI に丸がついているポイントが一番多い。そこが重要だと思います。」

そして、成功した組織が成長する時に必ず直面する問題についても考えている。OCA TOKYO で、廣野はそれを実際に経験した。コミュニティが大きくなった時、質や文化をどう守るのか。

「システムをパッケージにして大量に売るというのは、一気に大きくなるやり方だと思います。でも、一番大変なのは、各社に伴走していくことです。OCA TOKYO も最初は 32 名から始まって、今は 1,500 名を超えている。全然知らない人がどんどん増えていく。その時に、どうやって質を担保するのか。樹林AI も、これからそこを考えて、決めていかなきゃいけないと思います。」

AI 時代を生きる若い人へ。「リアル」を体験してほしい。

AI がますます多くのことをできるようになる中で、若い人たちは何を身につけるべきなのか。

「自分の意見を持つことですね。そのためには、リアルな体験をたくさんする。できるだけ遠くに行ってください。ネットの上で世界に飛んでいくこともできるけど、一番大切なのは、人・物・事とリアルに出会うことです。人間は五感で物事を信頼する。ネット上だと、視覚と聴覚だけですよね。」

五感についてのこの考え方は、廣野にとって抽象論ではない。食べ物も、言葉も、社会のルールも違う場所で育ち、そのすべてを一から学んできた。

「触覚とか感覚とか嗅覚とか、そういうものが全部合致した段階で、人間にはすごく学びがある。そこから信頼も生まれる。だから、定型的な仕事は AI に任せて、あとは世界中を飛び回って、いろんな人に会って、いろんな体験をすればいい。場合によったら、宇宙に行ってもいいし。」

そして、人間だからこそ最も磨くべきなのに、ほとんど語られていない能力があると廣野は考えている。

受容力だ。

「すべてを受け入れる覚悟と用意が必要だと思います。それを持っている人は少ない。どうしても色眼鏡で見てしまったり、『これは本当はこうでしょ』っていうステレオタイプの考え方をしてしまう。それが一番危険なんです。すべてが新しい、すべてが初めて会う、というくらいの気持ちで向き合う。相手が何を言いたいのかを理解するためには、受容力が必要だと思います。その先にあるのが感謝の気持ちです。そういうものがあれば、戦争は起きないはずなんです。一番大切なのは、ちゃんと人の話を聞ける人になることだと思います。」

廣野が子どもの頃からずっと磨いてきた力でもある。

丸の内よりも、大阪よりも、OCA TOKYO よりも、樹林AI よりもずっと前。

オーストラリアの校庭で、自分とはまったく違う世界を見ている人たちを理解しようとしていた、一人の小さな日本人の少年がいた。

まず聞く。そして、自分の言葉を話す。

夢。

廣野には、まだやりたいことがたくさんある。

「今の段階での大きな夢は、健康に 100 歳までいくことですね。脳も体も、100 歳までちゃんと機能している。それは人間として大きな夢です。僕の場合、あと 40 年ぐらいしかないからさ。」

そして樹林AI と、これから樹林AI に出会うすべての人へ。

日本から GAFA にも負けないような、世界をあっと言わせるような企業になっていきますので、ぜひそのために力を貸してください。

廣野研一、執行パートナー

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樹林AIについて

樹林AIは、高い成果を追求する企業のためのAIエージェントを開発しています。メール、電話、メッセージングといったあらゆるビジネスコミュニケーションと、その背後にある業務フローを自動化し、人と組織を定型業務から解放。創造性と意思決定に集中できる環境を実現します。

創業から短期間で世界有数の急成長を遂げ、現在は日本、韓国、シンガポール、米国、英国、インド、マレーシア、タイ、インドネシアなど世界各地で事業を展開しています。すでに複数の大手企業に導入され、既存のツールやシステムとシームレスに連携しながら、105以上の言語で業務を遂行。深刻化する労働力不足という社会課題に応え、企業が次の成長へと踏み出すための基盤となることを目指しています。

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2026年9月10日
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